高砂人形


〜古縮緬ちりめん雛人形展〜

日本の匠と美ほさかにて
http://www.hosaka-n.jp/scheduleofexhibitions/

江戸、明治、大正の古い縮緬を
衣装に纏った可愛らしく雅やかな
お人形の展示を拝見してきました。

【高砂人形】

能の「高砂」と

能の元となった
「相生(あいおい)の松」

という伝説に出てくる
松の木の精を表わしています。

  尉(じょう)が持つ熊手には
「福をかき集める(財運)」

姥(うば)が持つ箒には
「邪気を払う(魔除け)」
の意味があります。

また 「お前百まで(掃くまで)
わしゃ九十九まで(熊手)」
と言う意味も。

 「相生の松」とは
黒松(雄松)と赤松(雌松)が
1つの根から生え出た松のことで

格別の神木とされ、縁結びや
夫婦和合、長寿の象徴として
尊ばれています。

日本舞踊で一番初めに習う
『寿』と言う曲は
この高砂と相生の松を
題材にした作品です。

【相生の松の伝説】

昔、播州(兵庫県)高砂神社の境内に雌雄の幹を左右に分った一本の松が生えたので

これを神木霊松として
大切にしていたところ

ある日
伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が現れ

「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられました。

  それ以来、人々はこの木を
「相生の霊松」と呼び

黒松(雄松)には
「尉=伊弉諾尊 」が宿り

赤松(雌松)には
「姥=伊弉冊尊」が宿るとし
祀ってきました。 

  【能 の高砂】

室町時代の猿楽師である 世阿弥(1363~1442) によって作られました。

  醍醐(だいご)天皇の御世
九州の阿蘇神社に友成(ともなり)という
神主がおりました。

  あるとき、友成は従者を連れて都見物に行く途中、有名な高砂の松を見ようと播磨国
(兵庫県)高砂の浦へ立ち寄りました。

  友成がその松を探していると
清らかな佇まいをした一組の老夫婦が
熊手とほうきを持って
松の木陰を掃き清めていました。

  友成は老夫婦に
「高砂の松と住之江の松は遠く離れているのにどうして相生の松というのですか?」
とたずねました。

  すると、おじいさんは
「この松こそ高砂の松です。
遠い住吉の地にある住之江の松と合わせて
”相生の松”と呼ばれています。

"相生の松"というのは夫婦の
ようなもので、お互いを思う気持ちがあれば、遠く離れていても心が通じ合うことからそう呼ばれているのですよ。」
と答えました。

そして『万葉集』の昔のように
今の延喜帝の治世に
和歌の道が栄えていることを
高砂の松、住之江の松に
たとえて賞賛しました。

  また、おばあさんが
「和歌の道が栄えるのは
草木をはじめ万物に歌心が
こもるからであり、草木の中でも
松は四季を問わず一千年も
緑色をたたえているということで、
たいへんおめでたいものです」
と語りました。

  友成が
「それは、それは
ありがたいお話を聞かせていただきました。ところで、あなた方はどちらの方ですか?」とたずねると

老夫婦は
「私達は、高砂と住吉の
「相生の松」の精です。
住之江で待っていますよ。」
と答え、

夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、
そのまま風にまかせて、
沖へと姿を消して行きました。

 残された友成の一行は老夫婦の後を追って、
月の出とともに小舟を出し高砂の浦から一路
住吉へ向かいます。

  住吉の岸に着くと、
男体の住吉明神が姿を現しました。
月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、
悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、
平安な世を祝福するのでした。

日月星ノ道 日記

風を聴き歌い 星々を纏い舞う 

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